おふろうさん(風浪宮)



IMGP1308.jpg

IMGP1310.jpg

IMGP1309.jpg

IMGP1311.jpg


風浪宮は、約1800年の歴史がある神社で、地元の人からはおふろうさんと呼ばれ親しまれています。年間多くの方が参拝に訪れ、中でも毎年2月に行われる風浪宮大祭は(約5万人の方が訪れる)風浪宮一番のお祭りです。

風浪宮の起源は、神功皇后が新羅外征からの帰途、筑後葦原の津(現在の大川市の榎津)に船を寄せた際、皇后の乗った船の近くに白鷺がこつ然と現われ、東北の方角に飛び去りました。

皇后は、この白鷺こそ勝運の道を開いた少童命(わだつみのみこと)の化身であるとして、白鷺の止まった所にお社を建てたのが起源だと言われています。

風浪宮には海の神様 少童命(わだつみのみこと)をはじめ多くの神様が祀られています。

また写真3枚めにある大楠は樹齢約2000年で神功皇后ゆかりの大楠です。


いいなと思って頂けましたらポチットお願いします。


にほんブログ村 写真ブログ デジタル一眼(PENTAX)へ
にほんブログ村
スポンサーサイト

旧三潴銀行本店



IMGP1299.jpg

IMGP1301.jpg

三潴銀行の名前の由来

そもそも当時、この辺りの地区は三潴県という地名だったそうです。

三潴県とは、明治時代初期に存在していた県であり、久留米県、三池県、柳川県の3県が合併して、三潴県ができていました。

後に小倉県と共に福岡県に編入されたことで、現在の福岡県になります。

福岡県は古く筑紫の国と呼ばれ、7世紀後期までに筑前・筑後の両国に分離していました。

664年に大宰府が置かれて九州諸国を管轄。延喜式では筑前が15郡、筑後が10郡。平安朝期には筑前の博多荘(安楽寺)・筑後の三潴荘(東寺)など多くの荘園がありました。

鎌倉期には武藤(少弐)家が大宰少弐と兼帯して守護に任ぜられ、筑後は大友・武藤・北条一門などが守護となります。

南北朝期には少弐家が筑前守護を継承、一方筑後では五条家など南朝の征西府の勢力が優勢でしたが、室町幕府の

九州探題・今川貞世に制圧されました。

室町期から戦国期にかけては中小豪族が割拠する情勢の中で、大内家が大宰府を掌握して筑前を支配し、大友家は豊前から筑後を制してこれに対抗しました。

戦国後期には毛利家が筑前へ、竜造寺家が筑後へ進出し、さらに末期には島津家の北進があり、諸家の角逐の場となります。

豊臣秀吉は1587年に九州を平定すると、筑前を小早川隆景に、筑後を立花宗茂ほかに、豊前北部を毛利勝信に与えました。

江戸初期には筑前は黒田家、筑後は田中家、豊前は細川家の所領となります。

江戸中期以後は筑前福岡藩(黒田家)・筑後久留米藩(有馬家)・筑後柳川藩(立花家)・豊前小倉藩(小笠原家)の4藩およびこれらの支藩が存在しました。

1871年の廃藩置県により筑前は福岡県、筑後は三潴県となり(1876 年に佐賀県を合併)、福岡県は1876年に小倉県(旧豊前国)を合併し、この年に三潴県が廃止されると、その旧筑後国の部分を編入するとともに、旧豊前国の南部を大分に移し、県域が確定した。


いいなと思って頂けましたらポチットお願いします。


にほんブログ村 写真ブログ デジタル一眼(PENTAX)へ
にほんブログ村

旧吉原家住宅



IMGP1305.jpg

IMGP1304.jpg

IMGP1306.jpg

IMGP1303.jpg

旧吉原家住宅は大規模で細部の意匠に優れ、建築年代も確実なものとして九州でも特に重要な建築物です。

この住宅は柳川藩小保の別当職(今で言う町長さん)を代々勤め後には蒲池組の大庄屋となった吉原家の居宅です。

伊能忠敬の測量日記には文化9年12月に二度にわたって小保町別当吉原正右衛門家に止宿したという記録も残されています。

主屋の建立は文政八年の墨書きが残っていて当主吉原三郎左衛門三運により建築されたと考えられ藩の公用に利用されていました。

天保年間に幕府から遣わされた巡見使の宿泊のために御成門の新造や納戸周りの改造なども行われました。

平成11年12月に国指定重要文化財に指定されています。


いいなと思って頂けましたらポチットお願いします。







筑後川昇開橋



IMGP1295.jpg

IMGP1297.jpg


筑後川昇開橋は、国鉄佐賀線の鉄道橋梁として建設され、1935年(昭和10年)5月25日に開業しました。船運との共存のため橋桁の一部が垂直方向に上下する昇開橋で、日本に現存する昇開橋としては最古のものです。

全長507.2m、可動部分の長さは24.2m、昇降差は23mの高さがあり、橋の設計・施行に中心的役割を果たしたのは鉄道技師の釘宮磐氏(当時の鉄道省熊本建設事務所長)、昇開橋の仕組みそのものは当時鉄道省の技師であった坂本種芳氏が考えたものです。

現在この筑後川昇開橋の構造を解説するための模型が鉄道博物館(埼玉県さいたま市)で展示されており、この模型は1937年にフランス・パリで開催された"パリ万博"にも出展されました。

筑後川昇開橋は筑後川の河口付近に位置し、有明海の潮の干満の影響も大きく受ける地理的条件を持っています。

付近には港もあり、建設当時は船が主要交通機関であったために大型船の往来も激しいものでした。これらの理由から干満の影響で船が通れなくなってしまう可能性がある"通常の橋"ではなく、中央部が昇降して船が通れる構造が採用されました。

ところが1987年3月27日、国鉄の民営化を前に佐賀線は廃線。筑後川昇開橋も閉鎖され、筑後川を管理していた当時の建設省から撤去勧告、解体も検討されていました。

しかし橋存続を望む地元からの声が強く、1996年(平成8年)に遊歩道として復活、現在では大川市・佐賀市諸富町のシンボルの一つとなりました。

また、橋の両端には公園が整備されており、国鉄の橋梁として稼動していた当時の姿のモニュメントや佐賀線に使われていた3灯式信号機、警報機なども保存されています。


いいなと思って頂けましたらポチットお願いします。


にほんブログ村 写真ブログ デジタル一眼(PENTAX)へ
にほんブログ村

プロフィール

大分ナシカ

Author:大分ナシカ
九州温泉県 大分県在住

風景写真、列車、人物、鳥、お花などの写真がメインのブログです。

九州大分県から色々な情報を発信してゆきます。

ブログ村

ページビューポイント

ブログ村

最新トラックバック

カテゴリ

犬 (5)
滝 (7)
船 (1)

counter

アクセスカウンター
アクセスカウンター
アクセスカウンター
ブランド買取紹介サイト***word-2******word-3******word-4******word-5******word-6******word-7******word-8******word-9***

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

メールフォーム

お手紙はこちらへ

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR