大江天主堂
天文18年(1549年)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザヴィエルが鹿児島に上陸し、わが国におけるキリスト教の伝道が始まりました。
天草には永禄9年(1566年)に志岐(苓北町)の領主がキリスト教の布教を許したことが始まりといわれています。しかし、江戸幕府によって禁教令が出され、厳しい弾圧が続くなか、寛永14年(1637年)、天草・島原の乱によって天草・島原のキリスト教信者はほぼ壊滅しました。
ところが、乱の中心地から離れた天草西海岸の信者は参加することができず、その後潜伏キリシタンとして密かに信仰を守り続けました。
乱から170年後の文化2年(1805年)にキリシタン発覚事件が起こり、大江・崎津・今富・高浜の4か村から約5,000人の人びとがかくれキリシタンとして、幕府から厳しく取り調べられました。
明治維新後の明治6年(1873年)、ようやく信教の自由が認められたころ、布教の中心地であった長崎の大浦天主堂の布教師西政吉が大江を訪れ、人びとに教えを説き、伝道者を招いて次々と洗礼を授け、天草におけるキリスト教復活の道を切り開きました。
明治25年(1892年)、布教のため来日したフランス人神父ルドビゴ・F・ガルニエは、私財を投じて白亜の天主堂を昭和8年(1933年)に建造しました。
長崎出身の鉄川与助(長崎の浦上天主堂を設計)によって設計されたこの天主堂は、ロマネスク建築で、高い天井の聖堂となっており、礼拝堂には貴重なド・ロ神父の布教活動のための版画5枚を見ることができます。
ガルニエ神父は、パアテルさんと親しみを込めてよばれ、この大江で農民と共に貧苦をともにしながら布教活動を続けました。
明治40年(1907年)には北原白秋、与謝野鉄幹、木下杢太郎、平野万里、吉井勇の5人が天草西海岸を歩き、ガルニエ神父を訪問しました。
このときの紀行文は五足の靴としてまとめられています。ガルニエ神父は25歳で来日し、82歳で亡くなるまでの約50年間を布教活動に努め、ついに祖国には帰らず天草に骨を埋めました。
なおこちらの教会も神聖な場所なので内部の撮影は禁止されています。
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82歳!
今じゃ当たり前だけど。
この頃に?
すごいな~@@